つたない読書感想文です。『ケーキの切れない非行少年たち』(著者:宮口幸治)を読みました。
児童精神科医の宮口幸治さんが精神科と医療少年院での勤務経験をベースに書かれた本です。
※記事内にも書いていますが、私自身IQ100未満の発達障害ですので、理解力も説明力も足りていません。「つたない」とはそういう意味です。
目次:
三等分のケーキ
本の帯には非行少年たちが書いた『三等分にしたケーキ』の絵が掲載されているのですが、きっと多くの人がショックを受けるのではないかと思います。
そこにあるのは三等分ではなく『不均等な三分割』なのです。
・三等分の意味がわからないのか?
・ケーキを平等に切り分けるということを見たこともやったこともないのか?
・この不均等が彼らには『三等分』に見えるのか?
さまざまな疑問を抱くことになろうかと思います。本書には『認知のゆがみ』という言葉が随所に出てきます。
いったい、この世界は少年たちにどう見えているのだろう・・・?
そう思うと、うまく言えないのですがなんとなく悲しくて恐ろしい気持ちになります。
追記:ところで、「絵心ない芸人」たちが三等分のケーキや、お手本を真似て描くことをしてみたらどうなるのでしょう? 絵心がないことと認知のゆがみは同一でしょうか? ちなみに、検証結果と「絵心ない芸人」が感じているかもしれない困難などがあれば、知りたいかも。 多様性を無視した画一的な義務教育への疑問が一部で湧き上がって来ている社会なので、認知のゆがみを矯正することが必ずしも将来の社会に必要なのか、よくわからないかなぁとふと思いました。
もう一度読み返す必要があるでしょうかな?
加害者と被害者生む
この本でクローズアップされているのは、主に知的障害を持つ子どもたちです。「反省以前の子ども」というように表現されています。
知的障害か、発達障害かというのはあまり重要ではなくて、本人が抱えている困難を周囲の大人に気づかれずに成長し、やがて社会で不適応を起こしてしまうことが問題になります。
その不適応の結果の非行とされる犯罪行為には、ときに被害者が存在しています。
ケアされるべき子どもを見過ごしたことが、犯罪の被害者をつくってしまうという、なんとも辛く悲しい負の連鎖の現実をどのように受け止めたらいいかわかりません。
私は、父、コジローが子どものうちに適切な環境で育たなかったことが本人にとっても、私たち家族にとっても「不幸」しかないことを残念に思っていたので何か支援体制があればいいのにとか、配慮があればいいのになと感じていましたがあくまで家庭の問題としてのみ捉えていました。
もちろん社会に適応して働くことができれば生活保護費などを削減できる上に納税もできますし、社会全体にとって良いことだという認識はありましたが、そこから更に踏み込んで想像できませんでした。
子どもの困難を見過ごすことが、犯罪被害者をつくる・・・我が家のようないち家庭の問題だけに留まらないことに改めて目を向けさせられました。
↓↓リンクです。本の帯もご覧になれます。
父、コジローのこと
このブログでは何度か書いている父、コジローのことです。
すぐにカッとなる、平気でうそをつく、なんでも自分の都合のいいように解釈する、小学生の算数を理解していない、など多くの問題を抱えていました。
これらのことから、発達障害(ADHD)と学習障害があったのではないか、ということに最近気付いたのですが、今回『ケーキの切れない非行少年たち』を読んで、コジローの被害者意識の強さを思い出しました。
私が言っていないことを「言った」と言い張って、「お前にそんなことを言われる筋合いはない!何様のつもりだ!」とブチ切れたり、いつでも何でも「誰かのせい」にして怒っていました。
本書によりますとIQ100はないとこの社会では生きにくいそうです。
私のIQは100ありません・・・。90代前半です。(しょんぼり。)
勉強のできないコジローが知的な面で私よりも更に過酷な状況であった可能性は十分にあると思うのです。なんといっても私の親ですしね。
私自身の発達障害も最近になってわかったことです。そこから更に本を読んでコジローの発達障害に思い当たったのです。
気付かれずに家庭を持ってしまう場合
この本ではあくまで「子ども」という存在にフォーカスしています。コジローのように気づかれないまま大人になって家庭を持った結果、さらに気づかれない「子ども」をつくっていくという『連鎖』についてはあまり言及されていませんでした。
もう少しその連鎖への懸念だけでも書いてくれたら有難いかなと思いました。
産み分けとか、偏見といった社会問題的な要素を含むと思うので簡単ではないでしょうけれど、誰か専門的な方が適切な形で言わないと対策も何も始まらないと思うので。ただの私得ですが。
きっと、あくまで目の前の「子ども」と、問題の解決方法に焦点を絞っているから余談は省かれているんだろうなと思います。
多くの場合、貧困を含めて人生の困難はまるっと子どもに引き継がれると言いますか、連鎖しているように思えます。
正式に発達障害の診断を受けたのは私だけですが、兄弟みな程度の差こそあれ困難を抱えています。そして、そんな私たちの両親も同じように困難を抱えて不適応を起こしています。
コジローは犯罪に手を染めていましたし、母も(詳しいことは控えますが)諸々問題を抱えました。
学校教育への期待
著者の宮口さんが学校での教育へ期待を寄せるのは、困難を抱える子どもの親も同じように困難を抱えているため、家庭での教育が不可能だと知っているからでしょうか。
家庭での教育についてはあまり期待を持たれていないように感じました。
親に対する言及は少し表現が強めのように感じたため、親の困難への理解があるのか、そうでないのかは、私にはハッキリと読み取れません。(読解力足りません。)
昨今、これだけ教育現場の負担が問題視されているなかですが、ひるむことなく学校教育へ言及されていてすごいなと思います。
ぜひ、現場だけでなく、まずは上の方々に届いてほしいです。
ルール作りをしている方々は現場を知らない上に社会適応の困難とは無縁でしょうから理解しにくいでしょう。それは仕方ありません。
ですが、宮口さんが書かれている非行少年の犯罪による経済的損失について目を向けていただければ、事態が深刻であることを理解していただけると同時に重い腰も少しは上がりませんかね・・・?
関連記事:父、コジローの話
2019.10.02追記