人の厚意や支援はありがたく受け取るべき、ただその一択ですか。
厚意を渡す側の気持ちに触れる機会は、受け取る側の気持ちに触れる機会よりも多いと思いますので、理解しやすいのだろうなと思います。
厚意を受け取る側にいる私が感じるモヤモヤする気持ちついて、ここに書きます。
目次:
あたたかい厚意について
ーー私の父親と親しかった方で、大変お世話になっている方がいます。私がまだ幼い頃ですが、その方は働かない父親を持つ母子を不憫に思い、母親にお金を持たせてくれたことがあったそうです。私が今こうして生活しているのはそんな助けもあってのことだと思います。
その後、その方ご自身の都合もあり長い間私たちは接点を持たなかったのですが、縁があって再び会うことがありました。
食事に連れて行ってくれたり、接点を持たなかった間支援できなかった分として多すぎるお小遣いを持たせてくれたりしました。
そうはいっても私たちはもう大人ですからお金をもらう必要はありませんし、おかげさまでこうして生きていますし、そもそも親でもないのに私たちに対して何も罪悪感など持たなくていいのですが、どうしても気が収まらないそうです。
あらかじめ断っておきますが、その方に下心などは一切ありません。責任感や義務感に従って行動されているものと思います。
と、まぁこういう事情の上に成り立つ「モヤモヤ」について書いていきます。
事例
わかりやすい事例を挙げます。
食事の時にメニューを選ばせてくれないのです。
胃腸の調子が良くない、と言っても「食べろ」「せっかくなんだから」とどうしても食べさせようとします。
「でも・・・」と私は言うのですが、「いいから、食べろ」という調子です。
お金を出してもらう側は何も選べないのですか?
我慢して食べなければならないのですか?
いっそのこと食事にも行きたくないとも思ってしまうのは非常識で薄情なことですか?
お金は受け取りたくありません。(そうしないとその方の気は収まりませんので預かっているものと思い私は自身は使わないようにしました。)
食事も無理して食べたくありません。
頑として渡してくるその方の厚意を、私も同じかそれ以上の力で拒否することは正しいのでしょうか。
ありがたく受け取ることでその方の心は満たされるようですが、私は苦しくなります。
(頻繁に会うことはなくなったので今はホッとしています。)
モヤモヤの質
私の父親は「子どもに人権なんてない」と吐いたことがあります。もちろん誰かの受け売りで「人権」なんて言葉を覚えたのでしょうから、たいして意味はわかっていないと思いますけど。
その方と父親とを同列に扱うことはできません。それはわかっています。
ですが、この私が感じる苦しさは「権利を無視されている」という感覚に似ているのです。
食事のことはわかりやすい事例で他にも諸々のことがあり、そのような苦しさを感じるようになりました。
もう一度書きますが、その方はご自身の義務感などに従って動かれていて下心なんて微塵もありません。
この『モヤモヤ』がこうして『言葉』になるまで1年以上かかってしまいました・・・はぁ・・・。
中島みゆきさんの「ギヴ・アンド・テイク」を聴いて涙が流れるのです。